ソウル・ミュージック


015

The Complete Atlantic Recordings

BETTYE SWANN ベティ・スワン

Bettye Swannは、1944年、ルイジアナ生まれ。彼女の本名は、Betty Jean Championでしたが、1964年にデビューする時は、Bettye Swannに名前を変えました。「Championという名前は、重荷で、好きでは無かった」と語っています。

 

その後、Capital Recordに移り、ソウルミュージックとカントリーを融合させたようなCountry-Soulを唄う事になります。A&RだったWayne Shulerが彼女の声に合うと思って、歌のスタイルを変えさせたからです。結局、それ程成功しませんでしたが、注目した人がいました。有名なF.A.M.E.のRick Hallです。彼は、1972年に交渉して、Atlanticがディストリビューターになりました。

 

このCDは、BettyeがAtlantic時代にレコーディングした全ての曲を収めた全23曲のお徳盤です。たったの5年間で、アルバムは無し、シングルも6枚だけで、TOP30には2曲しか入りませんでした。とても大成功とは言えませんが、彼女の歌は何かしら心を打つものがあります。「人も歌も好きだけど、ショービジネスは大嫌い」とも言っている彼女が、純粋に情熱を注いで唄った曲だからでしょうか。

 

1曲目のVictim Of A Foolish Heartが始まり、彼女の可憐な声を聴くと、何となく優しく慰められたような気持ちになります。ライナーノーツでは、melancholy(物悲しい)、plangent(もの悲しげに響き渡る、訴えるような)トーンの声だと称しています。20曲目にHeading In the Right Direction(正しい方向に向かっている)という曲がありますが、どう考えても皮肉なタイトルです。ショービジネスに渦巻く周りの思惑に翻弄されWrong Direction(見当はずれの方向)に言ってしまったとしか思えません。


014

Stay Out Of The Kitchen

MABLE JOHN メイブル・ジョン

Mable Johnは1930年ルイジアナ生まれ、10人兄弟の一番年上でした。Mableのお父さんは、ルイジアナではきこりでしたが、より良い条件の仕事を求めて、John家は1942年にデトロイトへ引っ越し、お父さんはダッジ社(1928年に買収されクライスラーの一部門となっていました)の組み立てラインで働く事になりました。

 

Mableより先に、弟のLittle Willie JohnがR&Bシンガーとしてショービジネスに入りました。デトロイトのパラダイス・シアターのアマチュア・ナイトからキャリアをスタートさせ、Kingレコートと契約し、1955年から1961年の間に17曲がビルボードのR&Bチャート入り(うち8曲がトップ10)、Peggy Leeのカバーでも有名なFeverを含む3曲がポップチャートにも入るなど、大成功しました。

 

Little Willie Johnがチャートを賑わわせていた頃、Mableは結婚し、4人の息子を育てながらゴスペルソングを書いていました。Berry Gordyのお母さんと知り合った事で転機が訪れ、Tamulaと契約し、60年にシングルを出しました。

 

「Motownは私のようなタイプの歌手には向いていなかった。私は、ポップスを唄うような歌手にはなれなかったし」

 

結局、Berry Gordyが認めて契約した一番最初の女性歌手でしたが成功せず、Al Bellと知り合った機会に、66年に今度はStaxと契約します。Issac HayesとDavid Porterの黄金コンビ作のYour Good Thing (Is About To End)を66年の春にリリースし、第6位にまで上がる大ヒット曲になりました。その後も素晴らしい曲を出しましたが、不可解な事に成功はしませんでした。

 

このCDは、事実上Mableの初めてのアルバムで、全26曲のお徳盤です。なぜかYour Good Thing (Is About To End)のヒット曲を始めシングル曲が半分くらいしか入っていません。1曲目はシャープで快活なMableの唄い方がカッコ良いタイトル曲です。こんな曲が未発表とは。それどころか、60年から68年の間で、シングルがTamulaで4枚、Staxで7枚だけ、アルバムはゼロでした。

 

面白いのは、Steve CropperとEddie Floydは、彼女を「sing talker」と呼んでいました。「私は、『話している時でさえ歌っている』って彼らは言ったの。それこそ、私の声か語りについて、彼らが気に入ってくれた”何か”を現しているわね」

 

最後の曲I Need Your Love So Badは、兄弟のMertisがLittle Willie Johnの為に50年代半ばに書いた曲です。68年にWillieが死んだ時、彼の思い出の為に何かしたい、彼の名前は死なないように、と思って、Mableが再レコーディングしたそうです。


013

The Studio Recordings 1968-1972

ALICE CLARK  アリス・クラーク

Alice Clarkはミステリアスなアーティストで、全然情報がありません。アルバムも1枚しか出してなく、そのアルバムも売れずに、シーンから完全に消えてしまいました。

 

当時の彼女を知っているBilly Veraは、といっても殆ど記憶に無いそうですが、「当時の私の出版会社April-Blackwood Musicに彼女のマネージャーが彼女を連れてきました。殆ど交流も無く、ただ彼女に歌を教えただけでした。彼女の印象は殆どありません。世間話はしましたが、子供が複数いること、宗教的なしきたりで、風呂に入るか髪を洗うかを禁止されていること、などを話していました」と言っています。

 

すごい話です。彼女はいったいどんな匂いがしたのでしょうか。風呂好きの日本人の感覚では、この話だけでも彼女が相当変わっていて強烈な印象が残りそうですが、アメリカ人には、そんな事は別に気にならないのでしょうか。

 

このCDは、唯一のアルバムを含むAliceがレコーディングした全ての曲を収めた全16曲のお徳盤です。レーベルのMainstreamは、シリアスなファンキー・ジャズをメインにしていましたが、ソウルミュージックにマーケットを移そうとしていた時だったそうです。そんなことが影響したのか、彼女のアルバムは一般的なソウルミュージックとは少し異なり、ジャズっぽい演奏が印象的です。

 

ソウルとかジャズといったジャンルの枠にはまらない演奏と、彼女の伸びやかな歌が合わさり、非常に「自由な感じ」をかもし出し、とても良い作品になっています。何で全然売れなかったのか、本当に不思議です。


012

Dig It The Most

JACKIE DAY ジャッキー・デイ

Jackie Dayは1938年、アーカンソー生まれ、インナーの写真を見れば分かりますが、前歯の間が少し開いた(日本ではすきっ歯と言われてあまり良いイメージは有りませんが、フランスではdents du bonheur、幸福な歯と言われるそうです)可愛い女の子でした。ジャケットの写真は、撮る時に何かを詰めて分からないようにするよう会社の誰かが決めたそうで、見ても分かりません。

 

Jackieは早熟で、17歳でシングルマザーになりウェイトレスとして働いていました。その頃は、ボーカリストになりたいとは誰にも言ってなく、長い親友のMacy Joshuaさんは、「彼女がレコードを作ったと後から聞いてショックを受けました。知る限り、当時彼女が唄っているのを見たことはありませんでした」、と言っています。

 

彼女は、サックス奏者でアレンジャーのMaxwell Davisと組んで、Modernレコードからシングルを出すようになりました。当時、Modernレコードは昔のレコーディングのリイシューにのみ力を入れていましたが、新たに1000番台で新しいソウルのレコードをリリースしようとしていました。Ike & Tina TurnerやIkettes、Mary Love、Little Rechardなどのアーティストがいましたが、Jackieもその一員に入り、レコードを出す事になりました。

 

最初のシングルBefore It's Too LateはB面でしたが、1966年には2万4千枚売れ、その後、更に3千枚売れました。ただ、手堅くインディーズのレーベルを運用するには良かったのですが、大ヒットには程遠く、2枚目のOh, What Heartacheと3枚目のLong As I Got My Babyは5千枚程度に終わりました。

 

Modernはソウルミュージックの市場では、存在が希薄でした。わずかにIke & Tina TurnerやIkettes、Mary Loveのヒットがありましたが、とても充分とは言えない数でした。結局、Modernは1967年には事業をたたんでしまい、Kentの子会社のものとなります。そのため、JackieはSpecialtyに移り、より深い意味を持つ歌詞を書く事に興味が強まっていた彼女は、そこで最初のプロテスト・ソングである「Free at Last」をリリースしました。

 

このCDは、Jackieがレコーディングした全ての曲を収めた全20曲のお徳盤です。JackieがModernと契約する前に作った、彼女の最初のシングルで結局リリースされなかった、Don't Fence Me Inや、シングル盤が2005年にオークションサイトで4050ドルで売れた、空耳で、「のりのりボーイ」と聴こえるNaughty Boy、Specialtyの後、Pauraから出した彼女の最後のシングルGuiltyまで、本当にレベルの高い曲ばかりです。

 

そして、ポップで明るくてご機嫌な他の曲とは違う、Martin Luther Kingの1963年の有名な演説「私には夢がある」にインスピレーションを受けたFree at Lastはしみじみと良い曲です。「私は黒人、私は女性」から始まる、二重に差別される存在だと言いながら、「でも、いつかは自由になる」と唄う彼女に感動してしまいます。こんな時は、さすがに英語が分かったらなあ、と思ってしまいます。


011

I'm So Satisfied

TOMMY TATE  トミー・テイト

Tommy Lee Tateは1945年、フロリダ生まれ、父親は不明です。お母さんは子供を育てるのに問題があり、おばさんに預けられます。

 

多くのソウルシンガーと同様、歌のキャリアは地元の教会でしたが、R&Bなど世俗音楽に興味を持ち、14歳の時に、歌手とドラマーの両方を始めました。

 

このCDは、TommyのKo Koレコード時代を収めた全20曲のお徳盤です。Tommyは、1971年に歌手および作曲家としてKo Koと契約します。Ko KoはStaxの子会社と思われていますが、とても小さいのに配給のみをStaxに委ねていた会社です。なので、アーティストは限られていましたが、Luther Ingramがいました。彼は(If Loving You Is Wrong) I Don't Want To Be Rightが大ヒットしたスターでした。

 

Ko Koの出すレコードはStaxでは充分なプロモーションを与えられ、殆どがR&Bチャート入りしましたが、数少ない例外の1つが、Tommyの最初のシングルI Remember」/「Help Me Loveでした。それでも、彼の銀行口座にはお金がどんどん増えていきました。会社がバックトラックをLuther Ingramのアルバムに再利用したからです。

 

2枚目のシングルSchool Of Lifeはヒットし、22位まで上昇し、11週チャートに入っていました。不思議な事に、ここでヒットの余勢を駆って一気にシングルを出す事もなく、Ko KoがStaxの傘下からニューヨークのインディーズに変わり、最後のシングルI'm So Satisfiedを出したところで、彼のキャリアでピークだったKo Ko時代は終わりました。

 

その全てがこのCDには入っています。派手なパフォーマンスはありませんが、するめのように深い味わいがあります。


010

The Complete Ann Peebles on Hi Records Vol.1

ANN PEEBLES アン・ピーブルズ

Ann Peeblesは1947年、セントルイスに近い、Kinlochというところで生まれました。11人兄弟の7番目でした。面白い事に、小さい頃、両親から「7番目の子供はバカか賢いかのどちらかだと聖書に書いてある」と言われ、賢くなろう、と思ったそうです。本当にそんなことが聖書に書いてあるのかは分かりません。

 

母親の早過ぎる死後、お父さんに励まされてSam CookeとAretha Franklinの後を追ってR&Bシンガーとなる決心をしました。そして、HiレコードのA&RマンだったWillie Mitchellのオーディションを受ける事になりました。Willieがピアノを弾いてSteal Awayを歌いました。勿論合格し、AnnはAl Greenより早く、Hiと契約したR&Bシンガーとなりました。

 

このCDは、AnnのHiレコードにおける1枚目から4枚目までのアルバムを収めた、2枚組、全38曲のお徳盤です。ArethaのChain Of FoolsやFontella BassのRescue Meなど、結構カバー曲も入っています。そして、ヒットした代表曲の1つI Can't Stand The Rain。魅力的なAnnの声を満喫できます。いつまでも聴いていたい、と思わせる心地よさがあります。加えて、洗練された演奏。セザンヌの絵のように、静かで全てが完成されています。彼女の声はJohn Lennonも絶賛していて、僕もJohnのインタビュー記事から、Annを知りました。


009

THE CHESS COLLECTION

LAURA LEE ローラ・リー

Laura Leeは1945年シカゴ生まれ。既に幼い時からお母さんのゴスペルグループ「Meditation Singer」のリードシンガーになり、世界中で唄っています。

 

「私たちは、ラスベガスで歌った初めてのゴスペルシンガーズだった。ニューヨークのコパカバーナも、ワシントンDCのハワードシアターも、パリのオペラハウスも。アンティーブのジャズフェスティバルも。みんな私たちの歌を好きになってくれた」。

 

「ラスベガスではFrank SinatraとSammy Davis Jr.も見に来てくれたわ。Frankは『ビックな声の小さな女の子』って私を呼んでいて、レコードを出さないかって父に持ちかけたけど、父は私が若すぎると思って断ったの」

 

Lauraはまた、唄いながらモデルの仕事もしていました。彼女の美しくとても目立つ顔立ちと、マスカラをいっぱいつけた長い睫毛で、ペプシコーラの宣伝の契約をしていたこともありました。「モデルは好きだったけど、インテリアデザイナーになりたかった。父は、私が小さい頃算数が得意だったので、会計士になって欲しいと思っていたみたい。ビジネス・カレッジに行ったけど、結局辞めて、歌に専念する事に決めたの」

 

このCDは、そんな容姿端麗、才色兼備なLaura LeeのChess時代の曲を集めた全21曲のお徳盤です。彼女は、”非常に心地よくて魅力的でグリッティな”(tantalising gritty)ボーカルで唄う”情熱がくすぶり続けるようなディープソウルバラード”(smouldering deep soul ballads)に、”脈打つような鼓動が粋なファンク・ソウル”(pulsating funk soul swagger)のMama's Got A Good ThingやIt Ain't What You Do (But How You Do It)など、どんな曲でも素敵に歌い上げます。ライナーノーツからもってきた形容詞はとても感覚的なので読んだだけだと良く分からないと思いますが、聴くと何となく納得してしまいます。


008

Inside The Glass House+Thanks I Need That

GLASS HOUSE グラス・ハウス

Glass Houseは、Ty Hunter、Larry Mitchellの男性2人と、Scherrie Payne、Pearl Jonesの女性2人の男女混合4人組のグループです。リードボーカルは、Ty HunterとScherrie Payneの二人です。Motownを辞めたHolland兄弟とLamont Dozierが作った、非常に短命に終わったInvictusからアルバムを2枚リリースしました。

 

Scherrieのお姉さんのFreda Payneは、同じレーベルの看板女性アーティストで、Band Of Goldなど、ヒット曲を出しています。Scherrieは、特にお姉さんの後を追おうと考えていたわけではなく、実際、教師をしていました。

 

ある日、FredaとEdward Hollandが電話で仕事の話をしていた時に、Scherrieがピアノを弾きながら唄っていて、バックグラウンドミュージックのように流れていました。EdwardがFredaに尋ねると、「私の妹なの」と答え、そして「とっても可愛くて、歌も唄えるのよ」と付け加えました。FredaとScherrieは美人姉妹としても有名です。

 

このほとんど意識しなかった行動が、結果としてInvicusのオーディションになり、彼女はGlass Houseに参加する事になりました。その後、20世紀で最も偉大な女性グループ(とライナーノーツは言っています)Supremesの、Diana Ross脱退後のメンバーになりました。

 

このCDは、InvicusでのInside The Glass HouseとThanks I Need Thatの2枚のアルバムにシングルを加えた、2枚組全26曲のお徳盤です。どの曲もクオリティは高く、メロディが良いのが特徴です。実は、Scherrieは曲も書けて、Holland兄弟やLamont Dozierと共に作曲者にクレジットされている曲が結構あります。


007

The Complete Ty Karim

TY KARIM タイ・カリム

Ty Karimは1947年ミシシッピー生まれ、15歳で結婚して離婚、10代の終わりにKent Harrisと出会って再婚し、一緒にレコードを作る事になります。ライナーノーツでは、「豊かで、深くて、ハスキーな声」とか「深く、濃い、ハスキーな声」と形容しています。

 

Tyは5フィート9インチ(175.26 cmですね)、長い脚の魅力的な容姿でした。失読症でしたが、強く、自信にあふれ、常に楽観的な性格でした。娘のKarimeは、「母がガレージでリハーサルをしていて、思う存分楽しんで唄っていたら、近所の人たちがみんな来て、拍手をしてくれたのを覚えているわ。母は歌を聴いてくれる人が大好きで、そんな母の才能と容姿が自慢だったの』と、インタビューで答えています。

 

このCDは、Ty Karimの全シングルを集めた全23曲のお徳盤です。どの曲もTyのハスキーで魅力的な声が堪能できます。ちなみにですが、Darrell BanksのSomebody (Somewhere Needs You)は、Lighten Up Babyの歌詞違いだそうです。情けない事に全然気が付きませんでした。


006

Feed The Flame

SPENCER WIGGINS スペンサー・ウィギンス

Spencerは1942年メンフィス生まれ。当時のメンフィスは、後の有名な黒人アーティストがいっぱいで、子供の頃の友達には、J BlackfootやDan Greerがいました。一方、近くにはBobby BlandやMaurice Whiteが住んでいました。

 

Spencerは1961年に卒業し、彼には1つの野心がありました。「高校を出ても大学には行く気がなく、大物アーティストに成りたいと心の中でいつも思っていたんだ」と語っています。

 

地元のクラブで活動を始め、Goldwaxと契約しました。素晴らしい曲をいっぱい残しましたが、全く売れませんでした。その後、FAMEのオーナーRick HallがSpencerの契約を買い取りたいと申し出て、FAMEからレコードが出る事になりました。ここでも全然売れずに、今度は学校時代の友達Dan GreerのSounds Of Memphisに移ります。シングルが3枚ほど作れる数のレコーディングをしますが、結局「I can't be satisfied」1枚がXLから発表されただけでした。

 

1973年にSpencerは引退し、フロリダの教会でGospelを歌い続ける事になります。売れなかった原因はマネジメントとプロモーションの欠如だ、とライナーノーツは書いています。「車輪は回り続けるんだけれど、どこにもいけなかった感じだった」とSpencerは当時を語っています。

 

このCDは、FAMEでの3つのセッションを中心に未発表曲を加えた、全22曲のお徳盤です。というより、半分以上が未発表曲ですが、クオリティはとてつもなく高いです。これだけ素晴らしいと、本人もいつかは売れるだろうと、心の中では信じていたのではないでしょうか。


005

After Laughter Comes Tears

WENDY RENE ウェンディー・レナ

兄弟の1人と友達2人と一緒に、the Drapelsという名前のボーカル・カルテッドで、1964年にWendyはデビューしました。面白いのは彼女の名前で、出生証明書ではMary Friersonですが、家族内では単にLittle Sister、学校ではMary Louと呼ばれていました。デビュー時に、スタックスの歌手兼宣伝係のDeanie ParkerがWendy Stormという名前を提案しました。本人は「なかなかキャッチーな名前」と思ったそうですが、その時にOtis ReddingがWendy Reneと言って決まりました。本人もお気に入りだったそうです。

 

The Drapelsで2枚シングルを出した後、Wendyは高校時代に書いた曲After Laughter Comes Tearsでソロデビューします。今では、サンプリングで使ったWu-Tang Clanの曲の方が有名ですが、ヒットしました。ビルボードのデータベースで調べると1964年10月10日に、1週だけポップチャートで134位になっています。

 

このCDは、本当に短い2年間での、The Drapelsとソロの曲を集めた全22曲のお徳盤です。若く元気いっぱいだけど、何故か少しだけ悲しい感じも有るWendyの声は本当に魅力的で、後から思い出す青春時代に似ています。


004

Can't Find Happiness

BARBARA & THE BROWNS バーバラ&ザ・ブラウンズ

60年代のメンフィスは、全米で最も音楽的に重要な都市の一つでした。そのメンフィスで、女の子が10人、男の子が2人という大家族だったブラウン家は、教会でゴスペルを歌っていました。Barbaraがリードで、3人の姉妹、RobertaとBetty、Mavriceと共にthe Brown Sistersとしてオリジナルのゴスペルを唄っていました。

 

兄弟の一人であるRichardがゴスペルのレコードを作りたいと、Chips Momanに会いに行きました。Chipsは彼らをオーディションすると、その時作っていたBig Partyという世俗的なR&Bの曲が合うのでは感じました。Mavriceは、「R&Bなんて唄いたくなかったけど、差し出されたのがそれしかなかった」と言っていたそうです。

 

それから、Staxで数枚、その後に他のレーベルからも数枚シングルを発表しました。最後は、1972年の4月4日に、Dan GreerとのセッションのPity A Foolを発表したのが最後になりました。このCDは、その全てを収めた全20曲のお徳盤です。暑いギターと炸裂するホーンのアップテンポのメンフィスサウンドYou Don't Love MeやDan Greerが美しいストリングスを付け加えたPity A Foolなど、アップテンポもスローも素晴らしい出来です。


003

Lay This Burden Down

MARY LOVE メアリー・ラブ

Mary Loveは1946年、カリフォルニア州、サクラメント生まれ、お母さんのRamonaは何とまだ16歳でした。

 

結構大変な環境で育ちますが、17歳の時にタレントコンテストに出始めました。90lb(40.8キロ)しかない彼女がEtta JamesのSomething's Got A Hold On Meを唄うと、聴衆はみんなびっくりした表情になったそうです。

 

その当時、Maryはたくさんのデモテープを作っていました。プロデューサー兼アレンジャーで曲も書くHal Davisは、本名のMary AllenよりMary Loveの方がよりコマーシャルな名前だと考え、Maryもそう思い名前を変えました。そして、1965年から1697年まで、Modernから12曲のシングルを発表しています。

 

このCDは、そのModern期に、その後発表した曲を加えた全25曲のお徳盤です。どれもポップで弾けるようなメロディに、甘いだけでなくパンチの効いたMaryのボーカルで素晴らしい曲です。


002

I'm the One Who Loves You

DARRELL BANKS ダレル・バンクス

Darrell Banksは1937年、オハイオ生まれ、最初のレコードOpen The Door To Your Heartを1966年に発表しました。活動期間が非常に短く、たった7枚のシングルと2枚のアルバムしか発表していません。そして、1970年にデトロイトで、三角関係のもつれから嫉妬した警察官に射殺されるという、衝撃的な死に方をしました。明らかに殺人のように思いますが、警官は告発されませんでした。なんだか、最近の一連の事件とよく似ています。

 

このCDは、DarrellがStaxの子会社Voltから出した、彼の2枚目で最後のアルバムHere To Stayに、シングル盤のみでリリースされた曲やデモなどを加えて、英国のKENTが発表しました。

 

19曲全て、声も曲も演奏も素晴らしの一言です。ライナーノーツには、1曲目でStax最初のシングルであるJust Because Your Love Has Goneを、南部ソウルバラッドの模範的な曲で、繊細な歌詞とメロディをもった曲だと書かれています。しかし、大ヒットにはなりませんでした。信じられません。理由があるなら知りたいです。

 

最後の曲No One Blinder (Than A Man Who Won't See)まで、何とも気持ち良くて幸せな気持ちの60分になりますよ。


001

Anthology

ANN SEXTON アン・セクストン

Ann Sextonは1950年、サウスキャロライナ生まれ、多くのサザンソウルのシンガーと同様に、小さいときに教会で歌い始め、60年代遅くに地方のクラブでプロシンガーとしてキャリアの第一歩を踏み出しました。

 

Annは最も過小評価されているソウルシンガーの一人です。あの有名なナッシュビルのプロデューサー兼DJのJohn Richbourgが、かつて一度「感動的な声を持つ素晴らしい歌手だ」と述べています。John Richbourgが誰なのか全く知りませんが、とにかくライナーノーツはそう言っています。

 

 

このCDは、Annの2枚のアルバムLoving You Loving Me(73年)とThe Beginning(77年)の2枚がカップリングされたお徳盤です。一曲目のYou've Been Gone Too Longでは、ギターに始まり、ホーンのイントロに続き、Annのどっしりと落ち着いた美しい声が唄い出します。大地のようなAnnの声はやさしく包み込み、聴いていると本当に心が落ち着きます。アップテンポのYou've Been Gone Too LongからちょっとミディアムのColor My World Blue、スローのKeep Holding Onまで、全22曲どれも素晴らしい出来です。