古代の日本人は、何を「幸福」と考えて生きていたのでしょうか?
「幸福」を表すやまと言葉は?
ここ最近は、ライフデザインやウェルビーイング、SDGsなどを自分のメインの活動テーマとしています。
そのなかの1つであるウェルビーイングは、「幸福」と訳されることが多いです。それでは、私たちのご先祖様は「幸福」についてどう思っていたのでしょうか。
今回は、「幸福」についてのやまと言葉から、古代日本人の幸福感を見ていきます。
古代日本人は、獲物が多く、豊作であれば幸福?
やまと言葉で幸福に当たる語がサチです。朝鮮語のsal(矢)と深い関係が有るそうです。
おそらくヤ(矢)という語は、そういう石の矢じりを付けた道具であったろう。そこへ朝鮮から金属の矢じりの矢(sal)が輸入された。そこで新しい輸入後は、ヤ(矢)という古来の語に形容詞として加えられ、そこのサツヤという語が形成されたものと思われる。
(中略)
そのうちサツは独立して、satu→satiという変化を起こし、単に矢の意だけでなく、意味を広げて、弓矢から釣針に至る道具、猟の道具一般を指すに至った。
(中略)
サチが利、猟の獲物の意に転じている。もし獲物が多ければそれは仕合せである。そこで、また、サチは幸福に転じる。
また、「幸福」には別のやまと言葉もありました。
ところが幸福をいう基礎語には、いま一つ、サキハヒという語があった。
(中略)
サキハヒとは、植物が盛んに繁茂すること、転じては植物の生産の豊穣をいう語である。
そして、大野先生の結論です。
サキハヒは植物によってもたされる幸福であり、サチは、狩猟、釣魚による多収穫の幸福である。してみると、古代の日本人は、猟による幸福と豊作による幸福とを享受していたのであり、それらの収穫が豊かでありさえすればそれをもって幸福と考え、それ以上の心の苦しみの救済などは考えていなかったことを示すのではなかろうか。
引用は全て大野晋『日本語をさかのぼる』
チョットだけ悲しい結論ですね。本当にそうなのでしょうか。よっぽど貧しくて食べ物が豊富であれば幸福を感じる生活だったのかもしれませんね。
ものが溢れている時代に、日本人は幸福を見つける事ができるのか?
今日は、古代日本人の幸福感を紹介しました。精神的なことは深く考えず、食べ物が豊富であれば幸せ、というかなり欲求レベルの低い、物質的な感じでした。
もちろん、大野先生の意見であり、確かなエビデンスがあるわけでは有りません。ただ先生の説を読んで、現代日本人の満たされない空虚な感情は、幸せに対する適切なやまと言葉が無いのが原因では、とも思いました。
このものが溢れている時代に、日本人は幸福を見つける事ができるのでしょうか。
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